梨本宮(1868年創設、1947年皇籍離脱、1976年断絶)
伏見宮貞敬親王の第9王子守脩親王が梶井宮として創設(1868年)し、続いて梨本宮に改称(1870年)。
- 1870年の『太政官日誌』(『親王・諸王略傳』 守[守脩](『親王・諸王略傳』))によれば、宮称が門跡と区別し難いとの理由で改称を命じられている。
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御沙汰書寫
華頂宮【博經親王】
各通 梶井宮【守脩親王】
昭高院宮【照高院宮智成親王】
先般復飾後稱號其儘ニテ門跡區別判然難相立候ニ付、更ニ改稱被仰付候事。
但稱號相撰早々可伺出事。
伏見宮系の新設宮家は邦家親王の子によって梶井宮として創設されているが、梨本宮家のみ邦家親王の兄弟によって創設されている。
2代菊麿王は山階宮・晃親王の実子として生まれ梨本宮・守脩親王の養子になったが、後に実家山階宮家に復籍し、代わって久邇宮家から多田王(後の守正王)が梨本宮に入籍している。守正王は梨本宮の3人目の当主だが、2代菊麿王の差替であるため、梨本宮 2代とする場合がある。
旧皇族家としては1976年の梨本伊都子の死をもって断絶した。
梨本宮邸:東京都渋谷区渋谷にあった。跡地に東京都児童会館がある。
代 | 名 | 身位 | 誕 生 死 亡 | 続柄 (生順) | 備 考 |
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1 | | 親王 | - 1819/12/16
- 1881/ 9/ 1
- 61.8歳没
| - | - 伏見宮貞敬親王10王子、伏見宮・邦家親王の弟
幼称: 萬代宮母 : 家女房・合田愛子墓所: 泉涌寺側の宮墓地
1819/12/16: 誕生1832/ 5/ 7: 円満院門跡、光格太上天皇養子(12.4歳)1833/ 5/26: 親王宣下、守脩親王(13.5歳)1833/11/ 7: 円満院入寺、得度、覚諄親王(13.10歳)1859/ 7/19: 梶井門跡を相続(39.7歳)1859/10/22: 昌仁と改名、天台座主(39.10歳)1868/ 6/ 6: 還俗、守脩に復名、梶井宮を名乗る(48.5歳)1871/ 1/20: 梨本宮に改称(51.1歳)1875/12/31: 勲一等旭日大綬章(56.0歳)1881/ 9/ 1: 死去(61.8歳)
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代 | 名 | 身位 | 誕 生 死 亡 | 続柄 (生順) | 備 考 |
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2 | | 王 | - 1873/ 7/ 3
- 1908/ 4/28
- 34.9歳没
| - | - 山階宮・晃親王 1王子、守脩養子、山階宮 2代
1873/ 7/ 3: 誕生1874/ 4/12: 梨本宮・守脩の養子となる(0.9歳)1885/12/ 2: 実家に復籍し山階宮・晃親王の継嗣となる(12.4歳)
- >山階宮
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代 | 名 | 身位 | 誕 生 死 亡 | 続柄 (生順) | 備 考 |
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3 | | | - 1874/ 3/ 9
- 1951/ 1/ 1
- 76.9歳没
| - | 1874/ 3/ 9: 誕生1885/12/ 2: 梨本宮継承(11.8歳)1895/11/10: 勲一等旭日桐花大綬章(21.8歳)1900/11/28: 結婚(26.8歳)1901/11/ 4: 方子(1王女)誕生(27.7歳)1903 : フランス留学(フランス陸軍大学、日露戦争後に再留学し卒業、29歳)1904 : 日露戦争出征(参謀本部勤務、第3軍付武官、30歳)1904/11/ 3: 大勲位菊花大綬章(30.7歳)1906/ 4/ 1: 功四級金鵄勲章(32.0歳)1907/ 4/27: 規子(2王女)誕生(33.1歳)1909/ 1/15: 「多田伯爵」の名で妃と共に欧州王室を歴訪(34.10歳)1937/10/14: 伊勢神宮臨時祭主に就任(63.7歳)1940/ 4/29: 大勲位菊花章頸飾(66.1歳)1943 : 伊勢神宮祭主に就任(69歳)1945/12/ 2: A級戦犯に指名され巣鴨拘置所に収監される(71.8歳)1946/ 4/13: 「証拠不十分」で不起訴、釈放(72.1歳)1947/10/14: 皇籍離脱(73.7歳)1951/ 1/ 1: 死去(76.9歳)
- 軍歴
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- 1945年8月12日、皇族軍人が招集され、昭和天皇からポツダム宣言受諾の理由説明と以後の協力要請があった。これに対し、守正王が皇族軍人を代表して「私ども一同、一致協力して聖旨を補翼します」と奉答している。
- 第二次世界大戦中に伊勢神宮祭主を務めていたことなどから国家神道の頭目であるとみなされ、軍務にほとんど関与していないにもかかわらず皇族としてただ1人A級戦犯に指名されたが(1945/12/ 2、第三次戦犯指名)、「証拠不十分」として不起訴となり1946年4月13日に釈放されている(BC級戦犯としては小松輝久・侯爵がいる)。
- 遺言により火葬、明治以降の皇族、旧皇族では初。
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| | - 1882/ 2/ 2
- 1976/ 8/19
- 94.6歳没
| 妃 | 1882/ 2/ 2: 誕生1900/11/28: 結婚(18.9歳)1901/11/ 4: 方子(1王女)誕生(19.9歳)1907/ 4/27: 規子(2王女)誕生(25.2歳)1910/ 2/11: 勲一等宝冠章(勲二等より昇叙、28.0歳)1947/10/14: 皇籍離脱(65.8歳)1951/ 1/ 1: 守正(夫)、死去(68.10歳)1976/ 8/19: 死去(乳癌手術後、94.6歳)
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- イタリアのローマで生まれたため伊都子と名付けられた
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| | | - 1901/11/ 4
- 1989/ 4/30
- 87.5歳没
| 1王女 (1) | 1901/11/ 4: 誕生1919/ 1/ 6: 勲二等宝冠章(結婚に伴い、17.2歳)1919/ 1/25: 李垠と結婚する予定だったが、李太王(高宗)死去により延期(17.2歳)1920/ 4 : 李王世子暗殺未遂事件1920/ 4/28: 李垠と結婚(18.5歳)、皇室典範増補1921/ 8/18: 晋(1王子)誕生(19.9歳)1922/ 5/11: 晋(1王子)死去(20.6歳、朝鮮訪問中)1926/ 4 : 李垠(夫)、李王となる(24.5歳)1926/12/21: 勲一等宝冠章(勲二等より昇叙、25.1歳)1927/ 5 : 夫と共に欧州(仏瑞英白蘭独丁諾典波墺伊etc.)歴訪(1928/4/9まで、25.6~26.5歳)1931/12/29: 玖(2王子)誕生(30.1歳)1947 : 李王妃の身位を喪失し無国籍状態に(46歳)1957 : 日本国籍を取得(56歳)1962/12/15: 大韓民国国籍に(韓国政府よる告示、61.1歳)1963/11/21: 大韓民国に移住、昌徳宮楽善斎に住む(62.0歳)? : 知的障害児施設の「明暉園」と知的障害養護学校である「慈恵学校」を設立1970/ 5/ 1: 李垠(夫)、死去(68.5歳)1989/ 4/30: 昌徳宮楽善斎にて静脈瘤出血により死去(87.5歳)1989/ 5/ 8: 昌徳宮で葬儀。韓国皇太子妃の準国葬として執り行われ、日本からは三笠宮崇仁親王夫妻が参列した。後に韓国国民勲章槿賞(勲一等)を追贈された。
- 李王公家、梨本宮家
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| | - 1907/ 4/27
- 1985/ 8/25
- 78.3歳没
| 2王女 (2) | 1907/ 4/27: 誕生1924/10 : 武彦王との婚約が、宮内大臣牧野伸顯より、皇后、摂政裕仁親王に上奏される。(17.6歳)1926/ 8/ 3: 武彦王との婚約が解消される。(19.3歳)1926/12/ 2: 広橋真光と結婚(19.7歳)1985/ 8/25: 死去(78.3歳)
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- 広橋家に嫁ぐ前、1923/ 9/ 1の関東大震災で妻を失った山階宮・武彦王との縁談があったが、武彦王の精神上の病が原因で破談になった。
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| | | 養子 | |
| | - 1922/11/19
- 2007/ 2/ 7
- 84.2歳没
| 養子 夫 | - 久邇宮/多嘉王 3王子、龍田・伯爵
1922/11/19: 誕生1943/ 6/ 7: 臣籍降下、龍田・伯爵となる(20.6歳)1945/ 4/22: 結婚(22.5歳)1947/ 5/ 3: 日本国憲法施行により華族の身分を失う(24.5歳)1966 : 妻・正子と伴に伊都子の養子となり、梨本姓を名乗って祭祀を継承(44歳)1980 : 調停離婚(58歳)2007/ 2/ 7: 死去(84.2歳)
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- 子女は龍田姓を名乗っている。
- 2002年11月、神林隆夫(宗教団体「出羽三山」教主、皇族との血縁はない)を養子に迎える。
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| | | 養子 妻 | - 久邇宮・朝融王 1王女
1926/12/ 8: 誕生1945/ 4/22: 結婚(18.4歳)1947/ 5/ 3: 日本国憲法施行により華族の身分を失う(20.4歳)1966 : 夫・徳彦と伴に伊都子の養子となり、梨本姓を名乗って祭祀を継承(40歳)1980 : 調停離婚、離婚後は久邇正子を名のる(54歳)
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方子女王 守正王 伊都子妃 規子女王
広橋規子 伊都子妃 広橋真光 守正王 李方子 李垠 (梨本宮家 その2:直球感想文 和館)