- 親王宣下や改名で名の変わった人物については、変更後の名を用いています。
- 灰背景は「夭折者」、青背景は「次期当主」、緑背景は「宮家の創設者、他宮家の継承者」、
黄背景は「臣籍降下者」、赤背景は「后、妃、皇族家へ嫁いだ内親王、女王」です。 - 年齢の小数部は月数を示します(10.1歳 = 10歳1ヶ月、10.10歳 = 10歳10ヶ月)
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小松宮(1867年創設、1914年断絶)
伏見宮・邦家親王の第8王子、彰仁親王により創設された。
1867年、仁和寺宮嘉彰親王と名乗り、1870年に宮号を東伏見宮に改め、1881年に幕末以来の功労が顕彰され世襲親王家の家格となり、1882年に小松宮に改称している。
宮家の相続につき、彰仁親王は継嗣であり実弟でもある依仁親王に家督を相続させる意思をもたなかった。皇室典範で皇族の養子が禁止されていたため、自身が臣籍降下し華族となったうえで、かねてから養子同然の待遇をしていた輝久王(能久親王の四男)に家督を継がせるという案を宮内大臣に諮った。
討議の結果、彰仁親王は臣籍降下せず輝久王を臣籍降下させて小松の姓を名乗らせ、依仁親王には小松宮継嗣を止めて別に一戸を立てさせる、という内容で明治天皇に請願することとなった。
彰仁親王死去後、輝久王の臣籍降下は皇族男子の臣籍降下を許す『皇室典範増補』の制定により「小松・侯爵」として実現した。一方、依仁親王は小松宮継嗣を止められた後、「東伏見宮(小松宮の旧称)家」を創設した。その結果、小松宮家は一代で断絶した。
代 | 名 | 身位 | 誕 生 死 亡 | 続柄 (生順) | 備 考 | |
---|---|---|---|---|---|---|
1 |
| 親王 |
| - |
| |
| ||||||
| 親王妃 |
| 妃 |
| ||
| 王 |
| 養子 |
|
彰仁親王 ハワイ国王・デイヴィッド・カラカウア(1880年)
ナイアガラの滝にて、中央二人、頼子妃 彰仁親王(御華族様:直球感想文 和館)