東久邇宮(1906年11月3日創設、1947年皇籍離脱)
明治天皇の皇女の嫁ぎ先として創設された。
東久邇宮邸:東京都港区高輪にあったが、宮城事件の際に放火され消失した。跡地にはホテルが建設されている。
代 | 名 | 身位 | 誕 生 死 亡 | 続柄 (生順) | 備 考 |
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1 | | | - 1887/12/ 3
- 1990/ 1/20
- 102.1歳没
| - | 1887/12/ 3: 誕生1906/11/ 3: 宮家創設(18.11歳)1908/ 4/24: 勲一等旭日桐花大綬章(20.4歳)1915/ 5/18: 結婚(27.5歳)1917/ 5/ 6: 盛厚(1王子)誕生(29.5歳)1917/10/31: 大勲位菊花大綬章(29.10歳)1918/11/ 3: 師正(2王子)誕生(30.11歳)1920/ 4/19: フランス留学のため神戸港出港(32.4歳)1920/ 5/13: 彰常(3王子)誕生(32.5歳)1923/ 9/ 1: 師正(2王子)死去(35.8歳)1927/ 1/29: フランス留学より帰朝(39.1歳)1929/ 3/24: 俊彦(4王子)誕生(41.3歳)1942/ 4/ 4: 功一級金鵄勲章(支那事変の功により、54.4歳)1945/ 8/17: 内閣総理大臣に任命される(10月9日まで、57.8~57.10歳)1947/10/14: 皇籍離脱(59.10歳)1961/ 7/23: 成子(1王子妃)死去(73.7歳)1969/ 2/ 1: 盛厚(1王子)死去(81.1歳)1978/ 3/ 5: 聡子(妃)、死去(90.3歳)1990/ 1/20: 死去(102.1歳)
- 軍歴
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- 朝香宮・鳩彦王より二か月先に生まれたにもかかわらず、父・朝彦親王が稔彦王の生母より鳩彦王の生母を寵愛していたため、兄弟の順が入れ替えられ、皇統譜(皇族の戸籍簿)では稔彦王が弟になった。(「伏見宮家-もうひとつの天皇家」P.286)
- 1920年にフランスに留学し、フランス陸軍大学を卒業。卒業後たびたびの帰国命令を拒み続け、1927年1月29日にようやく帰国。
- 内閣総理大臣としては不評で、竹田宮恒徳王は早期退陣を唱えていた。
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| | - 1896/ 5/11
- 1978/ 3/ 5
- 81.9歳没
| 妃 | 1896/ 5/11: 誕生1915/ 5/17: 勲一等宝冠章(結婚に伴い、19.0歳)1915/ 5/18: 結婚(19.0歳)1917/ 5/ 6: 盛厚(1王子)誕生(20.11歳)1918/11/ 3: 師正(2王子)誕生(22.5歳)1920/ 5/13: 彰常(3王子)誕生(24.0歳)1923/ 9/ 1: 師正(2王子)死去(27.3歳)1929/ 3/24: 俊彦(4王子)誕生(32.10歳)1947/10/14: 皇籍離脱(51.5歳)1961/ 7/23: 成子(1王子妃)死去(65.2歳)1969/ 2/ 1: 盛厚(1王子)死去(72.8歳)1978/ 3/ 5: 死去(81.9歳)
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| | | - 1917/ 5/ 6
- 1969/ 2/ 1
- 51.8歳没
| 1王子 (1) | |
| 王 | - 1918/11/ 3
- 1923/ 9/ 1
- 4.9歳没
| 2王子 (2) | 1918/11/ 3: 誕生1923/ 9 /1: 母・聡子等と共に避暑中、関東大震災に遭遇。聡子は階上の部屋にいたため無傷で救出されたが、師正は倒壞した家屋の下敷きになり窒息死(於・藤沢市鵠沼海岸の吉村鉄之助別荘、4.9歳)
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- 師正と守正(梨本伊都子『三代の天皇と私』)
宮内庁から知らせで、鎌倉の山階宮佐紀子妃、片瀬海岸に避暑中の東久邇第二王子師正王、小田原別邸の閑院宮寛子女王の御三方が、家屋の下敷きになって死去というのです。 「このたびは、とんだことでございました」 と次から次といろいろな人が現われたのですが、事務官もなんだかわからずポカンという顔でした。 「実は電信柱にモロマサ王殿下、薨去と書いてありましたので・・・・・・」 東久邇宮の師正(【振假名】もろまさ)王と、宮様の守正(【振假名】もりまさ)王、片仮名で号外が書かれたから、多くの人が間違ったらしいのです。宮様は松の木の下にテーブルを置き、椅子に腰を掛けて怒鳴るのでした。 「オイ、ワシは大丈夫じゃ、ここに生きておるぞ」 見舞客は慌ててペコペコし、帰って行くのでした。あの当時は知らせる方法がないので、電信柱に筆で書いたニュースをベタベタ貼ったものらしい。それによって流言蜚語に悩まされたのです。
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| | - 1920/ 5/13
- 2006/ 8/30
- 86.3歳没
| 3王子 (3) | 1920/ 5/13: 誕生1940/10/10: 勲一等旭日桐花大綬章(20.4歳)1940/10/25: 臣籍降下、粟田・侯爵となる(20.5歳)1947/ 5/ 3: 日本国憲法施行により華族の身分を失う(26.11歳)1956 : 東京都職員として上野動物園に勤務(訓練係長、36歳)1973 : 多摩動物園に移る(53歳): 定年退職後、馬事文化財団に勤務(「馬の博物館」学芸員)2006/ 8/30: 死去(86.3歳)
- 軍歴
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| | | 4王子 (4) | - 皇籍離脱後、多羅間キヌの養子となり、ブラジルに移住
養母: 多羅間キヌ(元サンパウロ総領事・多羅間鉄輔未亡人)
1929/ 3/24: 誕生1947/10/14: 皇籍離脱(18.6歳)1951 : 多羅間キヌの養子となり、同年農業移民としてブラジルに移住(22歳)
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代 | 名 | 身位 | 誕 生 死 亡 | 続柄 (生順) | 備 考 |
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| | | - 1917/ 5/ 6
- 1969/ 2/ 1
- 51.8歳没
| - | 1917/ 5/ 6: 誕生1937/ 8/21: 勲一等旭日桐花大綬章(20.3歳)1940/ 4/29: 功四級金鵄勲章(22.11歳)1943/10/13: 結婚(26.5歳)1945/ 3/10: 信彦(1王子)誕生(27.10歳)1946/12/22: 文子(1王女)誕生(29.7歳)1947/10/14: 皇籍離脱(30.5歳)1961/ 7/23: 成子(妃)死去(44.2歳)1964/10/ 3: 寺尾佳子(よしこ、父生母・寺尾宇多子の親戚、1927/11/11-2011/12/12)と再婚(47.4歳)1969/ 2/ 1: 死去(51.8歳)
- 軍歴
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- 盛厚王は父稔彦王と共に皇籍離脱したため、東久邇宮を継いでいない。
| | - 1925/12/ 6
- 1961/ 7/23
- 35.7歳没
| 妃 | 1925/12/ 6: 誕生1943/10/12: 勲一等宝冠章(結婚に伴い)1943/10/13: 結婚(17.10歳)1945/ 3/10: 信彦(1王子)誕生(19.3歳)1946/12/22: 文子(1王女)誕生(21.0歳)1947/10/14: 皇籍離脱(21.10歳)1961/ 7/23: 癌のため宮内庁病院にて死去(35.7歳)
| | | | | 1王子 (1) | 1945/ 3/10: 誕生1947/10/14: 皇籍離脱(2.7歳)1961/ 7/23: 成子(母)死去(16.4歳)1969/ 2/ 1: 盛厚(父)死去(23.10歳)1978/ 3/ 5: 聡子(祖母)死去(32.11歳)1990/ 1/20: 稔彦(祖父)死去(44.10歳)
| | | | 1王女 (2) | 1946/12/22: 誕生1947/10/14: 皇籍離脱(0.9歳)1961/ 7/23: 成子(母)死去(14.7歳)1969/ 2/ 1: 盛厚(父)死去(22.1歳)1978/ 3/ 5: 聡子(祖母)死去(31.2歳)1990/ 1/20: 稔彦(祖父)死去(43.0歳)
| 他に2男子、1女子、後妻との間には2男子 |
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