逸 話 集貴人の黄昏― 旧皇族家の人々 ―

明治天皇の隠し子

明治天皇と女官・千種任子との子と自称した怪人物に堀川辰吉郎がいる。井上馨と京都の芸者の間にできた息子ともいわれ、頭山満や井上馨の庇護を受けて育った。頭山により孫文に托されて中国に渡り、1912年まで孫文と行動を共にして辛亥革命の成功に尽力した。

画家の橘天敬(園部義文)は明治天皇と女官・結城千代美(実在は立証されていない)との隠し子と自称し、東久邇稔彦に取入り「耀禅宮義仁」「小松中宮長仁」など皇族風の改名を繰り返していた。また、梨本宮・守正王妃・伊都子の姪・松平佳子と同棲していたという噂がある。

昭憲皇太后の追号

明治天皇の嫡母・英照皇太后は天皇の后だったが、皇后に冊立されることなく皇太后になっため、追号には皇太后が用いられた。昭憲皇太后は正式に皇后に冊立されているので、生前の最高位である昭憲皇后の追号が正しいが、宮内大臣が英照皇太后に倣って皇太后の追号で大正天皇に上奏し、天皇の裁可を得てしまったため、改めることができないまま今日に至っている。

  • 三后の身位序列は皇族身位令(1910年-1947年)において、1.皇后、2.太皇太后、3.皇太后の順であり、追号には生前最高位のものを用いるものと定められていた。
  • 大宝律令では、1.太皇太后、2.皇太后、3.皇后の順であり、江戸時代までは皇太后が皇后より上位であった。

貞明皇后と新興宗教

貞明皇后は宮中祭祀に真摯に取組む一方、いくつかの宗教に関心をもち少なからぬ額の御下賜金を出していた。

日蓮正宗
貞明皇后は1941年8月に日蓮正宗総本山大石寺法主から、妙法曼荼羅(鎮護御本尊)の授与を受け日拝していた。貞明皇后の影響で柳原愛子、秩父宮妃も入信した。
神ながらの道
筧克彦が唱える古神道、国体学。貞明皇后は、大正天皇が病弱になったのは、「大正天皇が宮中祭祀に不熱心であったが故に神罰が下った」という後悔の念を持っており、自ら神道を学び思想的影響を受けていた。
大日本精神団
飯野吉三郎が主宰した新興宗教団体。貞明皇后に取り入り、摂政皇太子(後の昭和天皇)の洋行を「神からのお告げ」として中止させようとした。
神政龍神会
矢野祐太郎、加世田哲彦等が創立(1934年11月14日)。香淳皇后の女官長だった島津治子1878/ 7/ 7-1970/ 2/14島津長丸・男爵夫人、久邇宮妃俔子のいとこ、皇后宮職女官長、当時大日本連合婦人会理事長)が入信し、「昭和天皇は早晩崩御する」などの発言をしたため、1936年、警視総監石田馨の指揮で不敬罪により逮捕された。貞明皇后の信任を得ており、警視庁による検挙がなければ、貞明皇后も入信するところだったという。島津治子は、その後、感応性精神病と診断され、警視庁から松澤病院(精神病院)へ送られ(1936年9月25日)、死去するまでの34年間を同院ですごした。

大真協会問題

宗教団体「大真協会」の婦人部次長であった久邇正子は、1968年頃から自分が入信させた久邇家の親戚筋の女官・松園英子を介して、香淳皇后に宗教上の指導をたびたび行っていた。

当時、昭和天皇は顔面痙攣を患っており、香淳皇后はその平癒を願って信心を始めたらしい。

今城女官問題

今城誼子(いまき よしこ)は香淳皇后付きの女官。皇后の厚い信頼を得て宮中で大きな影響力をもっていたが、入江侍従ら天皇側近と対立し自主退職に追い込まれた。

今城は旧来の皇室の慣習を厳格に守った貞明皇后の元で女官を務めていたこともあり、昭和天皇の高齢に配慮して祭祀を簡略化しようとしていた天皇側近と相容れない立場にあった。また、皇后に忠実な側近ではあったが、女官からは敬遠されており、北白川女官長も天皇側近側に与している。

1971年に今城女官が宮中を去った後、最も信頼する側近を失った香淳皇后は、心身の衰えを隠せなくなったといわれる。

照宮成子の作文

私はどういうめぐり合わせか高貴な家に生まれた。私は絶えず世間の注視の中にある。いつどこにおいてもわたしは優れていなければならない。私は皇室を背負っている。私の言動は直ちに皇室にひびいてくる。どうして安閑としていられよう。

高い木には風が当たり易い。それなのに高きにありながら多くの弱点をもつ自分をみるときこの地位にいる資格があるかどうか恐ろしくなる。自分の能力は誰よりも自分で一番よくわかっている。ともかく私は自分で自分を育て築きあげていかなければならない。

この炭鉱の奥深くで、来る日も来る日も働き続け世間から忘れ去られそして人知れず死に行く運命をもった人々の前に立った時、護衛の警官やおおぜいのお供をひきつれている自分の姿にいたたまれぬ申し訳なさを感じた。

女子学習院中等科5年生 1942年頃


皇太子妃騒動

昭和天皇の皇太子・明仁親王と民間女子との結婚に際し、香淳皇后、秩父宮妃勢津子高松宮妃喜久子松平信子(勢津子母、貞明皇后の御用係)、梨本伊都子(信子姉)などが強い反発を示した。皇族と民間人(平民)との結婚が、上流社会(旧皇族、華族など)の没落と看做されることへの反発があったといわれる。

「東宮様のご縁談について、平民からとはけしからんとのことで、皇后様(香淳皇后)が喜久君様(喜久子妃)と勢津君様(勢津子妃)をお呼びになってお訴えになった由」(『入江相政日記』)

ことに東宮教育掛参与であり学習院女子高等科の同窓会組織・常磐会の会長を務めていた松平信子は、「妃は華族すなわち学習院出身者に限る」という不文律があるなかで、妃選考メンバーから外され、柳原白蓮(歌人、柳原愛子の姪)などの手を借りて右翼団体を動かし、件の民間女子一家に婚約辞退を迫ったという(『入江日記』)。また成婚後も妃に対する猛烈な批判を続けたらしい。

鷹司平通の変死

1966年1月28日夜、昭和天皇の三女・和子の夫で日本交通公社交通博物館調査役の鷹司平通(としみち、42)が、銀座のバー「いさり火」のマダム・前田美智子(39)の自宅マンション(鷹司邸から徒歩圏)でマダムと共に死去しているところを発見された。部屋の入口のソファの前で平通が、その3メートル奥に美智子が倒れていた。推定死亡時刻は27日午前1時から午前5時の間で、ガスストーブの不完全燃焼による一酸化炭素中毒が死因であると発表された。

平通は26日午後に上野の国立美術館で17世紀フランス名画展に出席、夜「いさり火」で過した後、美智子と共に店を出て以降、連絡が取れなくなったため、28日夕方、交通博物館が警察に捜索願を提出していた。

28日午後6時に警察から宮内庁に平通死去の連絡があり、午後9時30分頃、宮内庁から鷹司家に悲報が届いた。宮内庁は事実を伏せようとしたが、報道機関が動き出したため秘匿を断念、29日午前0時42分から緊急会見を行った。この事件は29、30日付の『ニューヨーク・タイムズ』などでも大きく報じられた。

平通は美智子が銀座の「杉の子」で働いていた1962年頃に美智子と知り合い、美智子が「いさり火」を開いてからは常連客になっていた。三大紙は「皇室に対するエチケット」として「事故死、変死」などの表現で控えめな扱いをしたが、週刊誌などは「情死、心中」の見出しでスキャンダラスに報じた。

高松宮妃の両親

高松宮妃・喜久子の父徳川慶久は徳川慶喜の七男として生まれた。容姿に優れ頭脳明晰で円満な人物であったが、睡眠薬カルモチンの量を間違えて服用し37歳で死亡している。晩年は妻・実枝子(有栖川宮家の娘)との夫婦喧嘩が酷く、自殺したという噂も流れた。

慶久には実枝子が実家から連れてきた側女中に2女(喜久子妹)を産ませたという説があり、また実枝子についても歌舞伎役者の子を産んだという噂がある。

伏見宮/利子妃母子の精神錯乱

伏見宮/利子は利子の第2子・昭徳の夭折の頃から徐々に精神を病み、ついには精神錯乱に陥る。また利子の第1子・邦芳王も母と同病であった。

  • 1887年から1889年にかけて日本政府の顧問を務めたドイツの外交官オットマール・フォン・モールは著書で「利子妃はすでにその頃から、のちに激しくなった精神錯乱の兆しを示されていた」と述べている。
  • 宮中顧問官などを務めた佐々木高行はその日記に「利子妃は御神経の御病症にて久しく御閉居、邦芳王(第1子)は御同症にて御閉居なるに」と記している。
  • 『幟仁親王行實』にも以下の記述がある。

    宮は御鐘愛の昭徳王不幸夭折せられしかば、その御悲嘆譬ふるにものなく、爾來、兎角憂鬱に沈み給ひしが、其の後、邦芳王亦不治の病に罹らせられたれば、御心痛のあまり腦の御病に罹り給ひ、遂に公の式には列し給はざるに至り、御一生の後半は御病苦と御悲嘆とに、お痛はしき歳月を送り給へり。(『幟仁親王行實』)

  • 邦芳王は陸軍幼年学校時代は正常だったが、北白川宮・能久親王が台湾で戦病死したあたりから精神に異常をきたした。父・貞愛親王の嫡1子として伏見宮を継ぐはずだったが「不治ノ疾病ノ故ヲ以テ」退き、兄で庶1子の博恭王が華頂宮から復籍して宮家を継ぐことになった。

    あの時分、運動の時間にはよく戦いくさごっこがあって、片方の大将が当時皇太子だった大正天皇で、もう一方の大将は伏見宮邦嘉王【ママ】殿下でした。この方はとても良い宮様で、陸軍の幼年学校へ入られましたが、北白川宮様が台湾でなくなられたことで衝撃を受けて、具合がわるくなられましたが ……。(「榎本春之助氏との対話」『華族 明治百年の側面史』、榎本春之助は榎本武揚の次男)

    邦芳王殿下不治ノ疾病ノ故ヲ以テ貞愛親王殿下ノ情願ヲ允シ博恭王殿下ヲ伏見宮ノ繼嗣ト定メラル(『官報』明治三十七年一月十六日告示「宮内省告示第六號」)

  • 利子の甥の有栖川宮/栽仁王と明治天皇第8皇女・允子内親王との縁談があった際、明治天皇は「有栖川宮には狂人の血統あり」として結婚に難色を示したとする説がある。また、利子の姪・實枝子の娘・徳川喜久子と大正天皇第3皇子・宣仁親王(高松宮)との結婚の際にも利子妃および邦芳王の狂気が問題視されている。
  • 明治天皇が栽仁王と允子内親王との結婚に否定的だったという話がある一方で、婚約は内定していたという説もある。

    自分も田中が問題を起したる時、二位局【柳原愛子】に就き當時の事情を糺したる事あり。局の話しに、有栖川の若宮【栽仁王】薨去の時富美宮(允子内親王)は御落胆にて御泣きになる事を聞き居れり、夫れは當時の御用掛りを承り居りし林友幸子爵より御婚約内定の趣を御承知遊ばされ居りたるが爲なり、……(『牧野伸顯日記』昭和九年九月十五日)

    ただし、栽仁王が死去した1908より前の1906年に允子内親王と妹の聡子内親王の嫁ぎ先となった朝香宮家、東久邇宮家が創設されている。

伏見宮/博義王の戦傷

1937年9月25日、駆逐艦・島風に乗艦中、上海の黄浦江で砲撃を受け、左手背外側に小彈片による盲貫創を被った。

「博義王(「島風」)にて浦東側よりの迫撃砲にて微傷をうけらる。結構な出來事なり。午後、陸上にて彈片を局部痲醉にて取出されたる由なるが、その後の新聞等も輕傷として取り扱ひ、ヤタラな書き方でなく、うまく書いてあつたと思ふ。(【行間書込】「島風」がウタれたのも佐世保からチヨイと行つて土嚢陣地を見て打つて見たくなつて、アベコベにヤラレたと云ふワケだらう。新しい船はキツト打つて通るさうだ)。これで皇族も戰死傷者の中に算へられる帖面ヅラとなり、よろし。」
(『高松宮日記』第二巻)

伏見宮/博義王の睡眠薬中毒

井上成美(海軍大将)によれば、博義王は催眠薬中毒だったようだ。

…… 宮様というのは非常に素直に育っておられて、いわゆる宮家のお付きのいうことをやっていればいい。また、お付きはお付きでもって、自分の受け持ちの宮様とか皇子様とか、そういう人の気にさわることをいえば首になるから、気にさわらんようにばっかりやっているんです。

伏見宮博義王殿下はね、お付き武官が殺したようなものです。不眠症になられたんです。お付きが催眠薬かなんか、おすすめしてね。ああいうものはだんだんエスカレートしていくから、二服できかない、三服できかない、四服も五服も飲むようになった、それを「はい、はい」といって、お付きのやつが飲ませた結果、催眠薬中毒になって、きかなくなったんです。そういうふうで、宮様というのはお気の毒なものなんだ。だから博義王なんか、もう少し生きられるはずなのに若くてなくなられてお気の毒だ。……
(井上成美伝記刊行会編集『井上成美』「井上と海上自衛隊幹部学校長との座談記録」)

旧皇族家出身者の離婚第一号

華頂博信は妻・華子(閑院宮/華子女王)と戸田豊太郎(徳川慶喜の孫徳川喜和子の元夫)との不倫現場を目撃し、1951年8月7日に離婚した。この離婚は旧皇族家出身者の離婚第一号となった。

当初は性格の相違による離婚と報じられたが、華子の兄・閑院春仁が手記と談話で真相を公表し、続いて博信も手記を発表することとなった。

華頂博信氏手記

私どもの離婚は決して夫婦喧嘩ではありません。私は廿五年間命をかけて妻を愛していました。それだけに離婚の決意は、七月十八日夜自宅のクローク・ルームで戸田氏と華子との姿を発見して以来の妻の思想と言動に就いて冷静な判断を下した上でなされたものです。妻はこの事件に対して少しも悔悟して居りません。

否、寧ろ今後も婦人衛生会の仕事に名を借りて戸田氏との接触を計ろうとしているのです。私の妻は一体誰なのか――。終戦後貴方は貴方、わたしはわたし、夫婦とは単なる男女の同居という家庭が相当あるらしい。それもそんな家庭生活を喜ぶ夫婦ならばそれで済むだろう。併しかし私には向かない。何か自由ということのはき違えではないだろうか。自由ということを掘下げてゆくと、真の自由は自律的には随分不自由なものではなかろうか。

わずかの間に妻の性格が想像も及ばぬ程変っていたと気がついたのはあの事件以来だが、それにつけても戸田氏は一年有半に亘り華子と会う度にコーヒーの中に一滴、二滴何か女の精神を弛緩させるような薬品でも混ぜておったのではなかろうかと推理小説的空想を抱く程妻の気持は激変していた。

しかしその妻が今度のようなことになったとて社会的に傷つけられてよいと云う理由が何処にあろうか。戸田氏さえも傷つけたくなかった。私の元の妻竹村華子が再び世に出る時世間はどうか彼女を笑顔で迎えてやって欲しい。私は元の夫として、いつまでもそう祈り続けよう。

離婚は幸か不幸か。私の場合離婚は不幸そのものである事を十分承知している。私はこれですべてを失いました。日毎に健康が衰えていくのを感じるばかりです。

  • 「竹村華子」は華子が離婚後に名乗っていた姓名
戸田氏の場合

戸田豊太郎氏は「閑院春仁氏の手記」(戸田氏の名前がはじめて明るみに出た)が発表された時と「華頂博信氏の手記」(七月十八日夜の事件の真相がバクロされた)が発表された二つの時期にそれぞれ次のように語っている。

〔第一〕
華子夫人は一口にいうと非常に洗練された社交的な女性だ。高貴な感情の持主で、その点昨年暮正式に別れた先妻の徳川喜和子などとは全然タイプが違う。私はそういう彼女に愛情を感じて接近したのである。しかし、二人の愛情は最初から結婚を前提としたものではなかった。その点華子夫人も同じ気持だったろう。だから私は華頂家の離婚についてはなにひとつ責任を感じないし、今後結婚する意思もない。

〔第二〕
私はもし彼女の環境が許したら、彼女と結婚してもよいと思う。しかし、それには友人知己の意見も十分聞いてから決めたいと思う。ではなぜ、いままで結婚のことを否定していたかといえば、彼女の離婚直後にそういう意見を示すと、世間にいたずらに誤解を招く結果になることを心配したからである。華頂氏についてはこのさい何も語りたくない。

華子夫人の場合

華子夫人にも二つの変化があった。

〔第一〕
戸田さんはいろいろ御好意を示してくれましたけれども、二人が深い関係にあるようにみるのは世間のデマでございます。
これ以上いま戸田さんのことにはふれたくございません。理由? いいえなんとしても申上げたくございません。
別れた主人についても、私としての言い分はございますが、このさい批判するのは遠慮したいのでございます。しかしもし許されるならば華頂家に戻って子供の面倒をみてもよいとも考えています。

〔第二〕
私は世間がどう非難しようとも戸田さんと結婚する決心でございます。
兄閑院春仁と主人がこんどの事件で示した態度はあまりに私の立場を無視しているのではないでしょうか。私はもっとなぜ私がこうなったかを理解してほしかったのでございます。
戸田さんと二人で、愛情で結ばれた新しい生活を勇気をもって進みたい。

華頂博信は、その後1955年に UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス分校)教授となり社会心理学を教えていた。晩年に米国籍を取得している。

有栖川宮/栽仁の死と高松宮家への祭祀継承

栽仁王は江田島の海軍兵学校にて虫垂炎のため薨去。

独身だったため有栖川宮は父威仁親王の薨去により断絶するが、大正天皇の命により、第三皇子・宣仁親王が、有栖川宮の旧称たる高松宮の号と有栖川宮の祭祀、邸宅などの財産を継承した。(正式な継承は威仁親王妃慰子の薨去後)

有栖川流書道は、幟仁親王から威仁親王妃慰子、徳川実枝子、宣仁親王妃喜久子へと母娘3代で受け継がれ、その後2名の皇族が喜久子より伝授されている。

閑院宮・春仁の同性愛による離婚

1956年妻・直子から離婚要求があり、1966年に調停離婚成立。

直子は「春仁王が同性愛者であり、妻を顧みず軍隊時代の当番兵だった男との情事に溺れていた」とマスコミに語った。軍時代に西口という当番兵と親しくなり、第二次大戦後も彼を閑院家の執事としていたようだ。

裁判後の春仁は事業に成功し、小田原の邸宅と先祖伝来の品を守って平穏な晩年を過ごした。

北白川宮・能久親王の新帝即位

1858年に親王宣下を受け能久の名を賜った後、1867年江戸に下って上野の東叡山寛永寺に入った。1868年、奥羽越列藩同盟が成立し、江戸で上野戦争が起こると、会津へ脱出して列藩同盟の元首的な立場に就いた。能久(当時は輪王寺宮公現法親王)が「東武皇帝」に推戴されたという説もあるが、実際に即位したかどうかは不明である。

北白川宮・成久王の事故死

▼大正一二年(一九二三)四月三日付の読売新聞に次の見出しが載った。

一昨日突如、パリー御遊学中の北白川成久王殿下薨去
御同乗の同妃房子内親王と朝香宮・鳩彦王は御重傷
自動車樹木に衝突両殿下はペルネー病院に

当時「軍事御研究」のため北白川宮、朝香宮、東久邇宮がパリに遊学されていた。

北白川成久王(三七歳)は四月一日、御付運転手ヴィクトール・デリア、房子妃、フランス人御用掛のエリザベート・ソビーらを連れて海辺の保養地ドービルに泊りがけの予定で向かった。

パリのアヴェニュー・フォッシュの高級住宅街にある自邸から五分の距離にある朝香宮邸に立ち寄って鳩彦王を乗せた。当初朝香宮ではなく、東久邇稔彦王をドライブに誘っていた。稔彦王は「あなたの運転は、失礼ですが、まだ十分でないからお止めなさい。私はイギリスに行く約束があるから」と断ってロンドンに向かったのだ。

成久王は朝香宮・鳩彦王とともに、排気量三九七〇CCの最新スポーツカーでノルマンディー地方の町エブルーに到着し、レストランで昼食をとった後に、御付運転手から運転を代わってシェルブール方面に向かった。エブルー出発の三〇分後に車はペリエ・ラ・カンパーニュ村の付近でアカシアの巨木に衝突した。

一九二三年四月六日付の地元紙「デペッシュ・ノルマン」は助かった御用掛ソビーに取材して、
エブルーの後、皇子はスピードを出した。ペリエからさほど遠くない所で運転手(注・助手席のデリア)は速度計をのぞいた。『一二〇キロ出ています』と彼は言った。このとき、速度を落とさずに皇子は先行車を追い越そうとしてハンドルを左に切った。操作が恐らく急激すぎたらしく車は激しく横滑りして木にぶつかり、五人の乗客を飲み込んだ」(広岡裕児『皇族』一〇二頁)
と報じている。

房子妃、鳩彦王はフランスで治療、療養後回復し、薨去した北白川成久王の喪主を東久邇宮・稔彦王が務めて遺骸は日本に帰った。

  • 朝香宮・鳩彦王は日本から妃を呼び寄せ、療養のため、1925年までフランスに長期滞在した。

李王家の財産

李王家の人々は日韓併合後も日本の皇族の一員として高い地位を与えられ、経済的にも優遇されていた。

まず併合以前の資産はそのまま保持された。李王家は朝鮮半島に150万坪の土地を所有し、数千万円の銀行預金を持っていたが、それらは李王家の財産として保護されている。

また、住居や別邸なども無償で提供されていた。住居は後の赤坂プリンスホテル旧館であり、別邸としては、静岡県三島市「楽寿園」(昌徳宮、元は小松宮・彰仁親王の別邸)、大磯「滄浪閣」(元は伊藤博文の別邸)などがある。

美術コレクションとしては、昭和8~18年にかけて東京美術学校長の正木直彦や洋画家和田英作らの助言を得て収集した日本美術品約200点からなる「李王家コレクション」があり、さらに競走馬までも所有していたらしい。

このような李王家の生活を維持するために、同家の歳費として毎年120万円から150万円が計上されていた(朝鮮総督府『施政三十年史』によれば、昭和10年度から15年度までは毎年180万円、以降昭和20年までは毎年120万円)。一方、昭和20年頃の内閣総理大臣の年俸は 1万円ほどであり、李垠妃方子の実家梨本宮家に対しては 4万円に満たない額しか支給されていなかった。使途の内訳は不明だが、朝鮮の王公族が日本の皇族より冷遇されていたわけではない。

東伏見伯爵と配給物資

第二次世界大戦中、皇族や華族は物資の配給につき一般人よりも優遇されていたが、東伏見・伯爵は皇族以上の配給物資を受け取っていた。

『高松宮日記』第七巻に「(三-三【昭和十九年三月三日】) 其後文部省カラ、インチキナ得度デハ許サヌ旨、宗務當局者ニ強ク話シタリ處、止メトナル。東伏見伯モ斷念シタトカ。ソレニツケテモ星島ハ磯子ニ常住シ、特別ノ配給トシテ白米・玉子・肉等ヲ警察、ソレガ受ケナクナツタノデ經濟部カラ受ケテ、而モ代金払ハズ、伯ハ月ノ半分ハ京都ナノヲ、全一月分トツテ何ントカ云フト皇族出ヲ振リマワシ量モ皇族以上トカ。近藤知事【神奈川縣】モ警察ニ出スナト云ツテ止マツタト思ツテ知ラズニヰタリ。笑話以上ナリト。」と記されている。

  • 別の文に「同行の東伏見伯にも左樣に申して居たのであるが、星島家令が遂に其の禁を破られたので、(異國さかな雜談、濱田耕作)」とあるので、文中の「星島」は東伏見・伯爵家の家令であろう。

久邇宮・朝融王 婚約破棄事件

久邇宮家は、朝融王と酒井菊子(酒井忠興・伯爵2女)との婚約を破棄した。

婚約は貞明皇后の裁可を得ており、長女・良子女王(香淳皇后)裕仁親王(昭和天皇)の婚約が破棄されそうになった際(宮中某重大事件)には婚約破棄を断固拒否したにもかかわらず、明瞭な理由を示さないまま、酒井家側が辞退するという形で婚約を解消している。

  • 1917/ 9 :婚約を内約
  • 1918/ 1/14:宮内省から婚約発表
  • 1920 1921:宮中某重大事件
  • 1924 :良子女王成婚、朝融王婚約解消

婚約破棄の後、朝融は伏見宮・博恭王3王女・知子女王と結婚した。ほどなく、朝融王が侍女を妊娠させた時、知子は宮附事務官に「父伏見宮・博恭王から『朝融王も酒井との婚約破れ、速に結婚出来ざれば、其面目に関するに付、朝融王に婚することを承諾せよ』と云われ、自分(知子女王)は其時より犠牲になる積りにて結婚したり」と述べ、夫の不始末を父博恭王に知らせないよう頼んだという。

侍女の産んだ子は事務官の手配で農家の養子となり、侍女は別の家に嫁がされた。このとき農家には一万円が、侍女には五千円が渡された。(当時の総理大臣の年俸は一万円に満たない額だった。)

東伏見依仁親王とハワイ王国王女との縁談

1885年、ハワイ王国のカラカウア国王が来日し、赤坂離宮で明治天皇と会談した際、当時、山階宮・晃親王の嗣子であった定麿王(後の東伏見宮・依仁、13歳)と国王姪のヴィクトリア・カイウラニ王女(5歳)との結婚に話が及んだ。ハワイ国王としては日本の皇室との結びつきを強化して、王国を存続させようという思惑があったようだが、国力の増強に努めていた明治新政府は「そこまでの余力はない」として断っている。

また、外務卿・井上馨は「外国皇室と婚嫁を通ずる事は、累を将来に及ぼす虞なきにあらず」と述べている。

  • ヴィクトリア・カイウラニ王女 山階宮定麿王

成子が癌により35歳で死去した後、盛厚は父・稔彦の生母・寺尾宇多子の一族の娘と再婚している。盛厚とは再従兄弟の関係であり、6親等離れている。

東久邇宮/盛厚とノモンハン事件

東久邇宮/盛厚王は陸軍砲兵少尉時代の1939年に野戦重砲第1連隊附としてノモンハン事件の戦地に動員された。しかし停戦が急遽実現し、公式の記録によれば、盛厚王は定期異動を待たず戦場から離脱している。

停戦は日本軍が大規模な増援を得て反撃に転じようとしていた矢先、昭和天皇による突然の「攻撃中止の大命」により成立した。この不可解な停戦については、長女の成子内親王の婚約者である盛厚王が捕虜になったため、同王の身柄を取り戻すべく昭和天皇やその周辺が動いたという説もあるが、真相は不明である。

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